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​与論民謡

​(川村俊英氏の資料より)

民謡は心のふるさとであり、祖先の心でもあります。与論島にも独特の古い民謡が十数曲あります。

祖先の尊い血と汗と涙と体験が五百首ほどの歌詞で歌われてきました。古い歌の歌詞は、八、八、八、六調

(琉歌)で出来ています。教訓、愛郷、愛情、信仰、労働等の歌詞があり、遊びの場で即興で歌詞を作り歌う

​こともありました。

​与論古謡の歴史

琉球(沖縄)に三線が最初に伝来したのは中国(明の時代)1380年前後であろうといわれています。

与論島は、およそ1266年(鎌倉時代)から1609年(江戸時代)の340年あまり琉球の所属でありました。

​琉球に中国の三弦が伝来して間もなく大阪府堺市の商人が持ち帰ったのが日本三味線の普及の発端になったともいわれています。その間に与論島にも三線文化が伝わり、1580年頃(安土桃山時代)には住民に普及し、与論古謡が作詞作曲され

歌われていました。

​与論古謡の種類と解説

​与論島古典民謡は、昔イキントウ(沖永良部島ではこれに似た曲でイチカブシと称してある曲)、上イキントウ、下イキントウ

道イキントウ、パイチクテン、ミヤクブシ、上アタイサマダキ、下アタイサマダキ、海者原者(ウンシャパルシャ)、

シゴーぬ中棚、五尺ヘンヨウ、シヌマンダイ等があります。また国の重要無形文化財である十五夜豊年踊りで歌われている

​曲があり、旧暦の3,8,10月の15日の琴平神社の境内で奉納されている。

​イキントウ

為謹当(イキントウ)は、1609年薩摩藩の奄美琉球攻略により、薩摩と琉球への上納に苦しみ、加えて飢餓まで重なったとき、どうして生き抜くかという悲惨な日常の溜息『どう為し、この飢饉に当たるか』がメロディ化したと言われている。饉は謹に変化した。最初に作曲されたものをもっとも古い意味で"昔イキントウ”といい、上げ調子に作曲されたのを"上イキントウ“.下げ調子に作曲されたものを“下イキントウ”。昨場通いの道中の苦労を和らげるための道唄として作曲したのを“道イキントウ"という。

​パイチクテン

1580年以前に作詞作曲されたと推定できるが作者不明。台風が来ないように干ばつにならないようにと祈りを込めて作られた。イキントウより早く作られたと言われている。

パイチクテンを漢字で書くと田の作は早くの「早作田」と書く。元祖の歌詞にアミタボリ タボリ シマヌプドゥ

ユガプウ(雨下さい下さい 島の幸運は豊年)というように豊年の唄であり豊作を願った唄である。

​ミヤクブシ

祖先たちは常に与論島外の状況情勢に関心が深く機会のあるごとに情報を収集して島内発展の資料にしていました。大和(本土)には、華やかな都があるとかないとか、与論島にもそんな都が出来ないだろうかという心を歌ったのがミヤクブシ(都節)である。つまり、文化の唄、島内発展の歌、島外勇飛の唄である。

早作田と同じ頃に作られた唄で、400年くらい前に宮古島にはミヤクブシに似た曲、あるいはこれを想起するような曲はなく、歌詞の内容からして与論島に本土から来たものが本土恋しさに偲んで歌った郷愁の歌ともいわれている。

アタイサマダキ(阿畑妨)

ガジュマルの枝が畑の妨げになるように、人様の邪魔になるとか、迷惑な存在であってはならない。と共に、

畑のガジュマルの枝は切っても、それが誤りであったらそのままにしていると再び枝が延びて元通りになるが、

人の妨げをしたら、いつまでたっても元通りにはならない。そうならないように注意しましょう、ねえ皆さん。

 

アタイサマダキは漢字で阿畑妨と書き、上阿畑妨、下阿畑妨の二曲からなっている。他にウンシャパルシャ

(海者畑者)があります。

アタイの漢字は琉球では「圃」(ホ・ハタケ)と書き、琉球民謡歌詞にもある。

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